<<2021年6月8日>>
本日は、高校の同窓生である「岩瀬 健一」さんからの
個展の案内状をシェアし、ご紹介します。


「岩瀬 健一展」ー粉引きに挑むー
会期:令和3年6月17日(木)〜23日(水)会期中無休
場所:新宿・柿傳ギャラリー
〒160-0002 新宿区新宿3-37-11 安与ビルB2階
電話:03-3352-5118

新宿駅に隣接した「柿傳ギャラリー」は、
茶陶磁器を中心に展示販売をしているギャラリーです。
岩瀬さんは、現在八王子に工房を持ち作陶をしています。
「練り込み技法の名手」として知られる人間国宝の陶芸家
故・松井康成氏に師事して以来、その作陶スタイルは、
練上、白磁、黒磁、灰釉などさまざまに変遷してきました。
2006年には「日本伝統工芸会の正会員」に認定され
現在に至っています。
2015-6年頃から粉引茶碗の作陶に本格的に取り組み始めた
岩瀬さんが、八王子の大自然に囲まれた工房で、日々近傍の
草木達と季節と気を共にして、淡々と気負いなく、
彼の性格のままに品格良く必然的に産み出されたのが、
今回の茶碗なのだろうと案内状を受け取った時の私の感想です。
今回の個展に向け、ここ2年間、コロナ禍の中で
ひたすら制作し続けたようですが、試しの茶碗を手に、
自ら「点てた茶」を入れて、工房からの景色を目前にじっくり
味わう刻、何事にも変え難い至福の世界が
そこにはあるのだと推測されます。
「粉引茶碗」は、ご承知のように17世紀頃から
朝鮮半島の高麗から伝来された茶碗の一種ですが、
秀吉をはじめ多くの日本の武士達にも珍重されるなど、
現在でも「茶の湯」に欠かせない茶碗であることは明白です。
私自身は、なぜか料理を引き立てる「粉引の器」を好み
「ぐい飲み」「徳利」「茶碗」「皿」「ビール杯」などなど
かつて縁あって当画廊で、茨城笠間の粉引陶芸家「吉村昌也」
さんの個展を開催した時に購入蒐集した「粉引作品」を日常的に
愛用していますが、使い込むほどに良い色合いに変化し続ける
これらの器に魅せられて来ました。
「緊急事態宣言下」で外出が思うに任せませんが、
期間中、新宿の辺りで、「岩瀬 健一」展のことが
頭によぎりましたら是非お立ち寄りください
(Facebookに投稿文から)


<<2016年10月29日)>>
「草間彌生」


かつて遠い日に、草間彌生の作品を初めて
眼にした時の衝撃を、今でも鮮明に
記憶している。
繰り返される水玉の塊、どう見ても男根
としか思えない異様な物体、、、、、
えぐい!えぐい!えぐい!、、、、」
辟易して、展覧会場を後にしても、
私がこれまで
経験したことの無い、このおぞましい
ほどのえぐさが、どうしても脳裏から
離れない。考えているうちにふと、
草間彌生という美術家にすっかり
打ちのめされている自分に気がついた。
この美術家は、ひょっとすると大変な
作家なのではないだろか?、、、と、
私は、今では、現存する日本人の
現代美術家の中で今世紀の
世界美術史の中に刻まれる
唯一の日本人作家だと考えている。
かつてTV番組で草間彌生特集で彼女が、
取り上げられた時、
彼女が語った言葉が忘れられない!。
「、、私って、友達が居ないの、、」
あまりにも卓越し過ぎた
魂ゆえの苦悩である。

今日、一部の画家の中に、米国で高額の
取引をされ、もてはやされているかに
見える日本人もいるようだが、
彼らの鼻持ちならない傲慢さと
いやらしさを垣間見ると
正直私はがっかりする。
草間彌生が昨日、文化勲章受章のニュースが
流れたが、私には遅きに失すると思われる。
すでに草間彌生にとっては、とっくに
文化勲章などのレベル域を遥かに
超えてしまっているからだ!!


<<1995年9月26日>>

ー彼岸、故・福本晴男を忍んでー
私が、その作品のみならず作家の思考や
生き方など全人格的なものというか、
その精神性というか、直感人間たるこの私が、
その魅力溢れる資質に、いたく惹かれ、敬服し、
少なからず、影響という影をたなごころに密かに納め、
大切に育んできた作家は、実は故・画家安徳 瑛の他に、
もう一人いる。いやいた。
彫刻家:福本晴男(元創型会・会員)である。
残念なことに、私にとって重要なこの作家も、
かっての安徳 瑛と同様、昨年(2014年9月)
又失ってしまうことになり一年目の彼岸を迎えた。
福本晴男に出遭ってしまって(まさに・・・)から、
30年を過ぎようとしている。
その日、銀座8丁目にある彫刻専門画廊
「ギャラリーせいほう」で福本晴男の個展が
開催されていた。普段、銀座では、余り行かない
このあたりに何故か、導かれるように足が自然に向いて、
気がつくとこの店のドアをくぐっていた。
抽象具象を問わず、全ての作品が、
冗長な点が微塵も見られず、又、金属を用いていても、
古木との適宜な折り合いの中で
一般の彫刻作品によくみられる金属特有の
あの非情な理知的過ぎる冷たさというものは
一切感じられず、すくっとした、
気品ある美しさに高貴な香りがして、
私以外誰もいない会場で、久しぶりに優雅な気持ちで
満たされている自分自身に気が付いて、
酔いしれていた。その時、どうしても
手元において置きたいと、値切り交渉など
思いつくことも無く、価格に構わず「衝動買い
」してしまったのが、写真の「龍を持つ少女」である。
この作品の購入をご縁に、作家自身と知己を得て、
その後埼玉・深谷のご自宅にも伺うようになり、
実にお美しい奥様からも厚遇を得、
手作りの無農薬野菜なども、
たくさん頂戴するようにもなった。
当時は、私の懐具合も比較的暖かい時代であったので、
出来れば、もっとたくさんの作品を所蔵したいと
考えていたが何せ、この作家は、寡作の上に作る作品は、
非売品ばかりで、私の希望は、なかなか果たされず、
現在、福本晴男の作品は、平面を含めて10数点ほどである。
この作品は、危うく手放しそうになった時が、2度あった。
一度目は、安徳 瑛が、「これはとても優れた作品なので、
出来れば、自分の50号以上の代表作品と
是非交換して欲しい!」といった時、・・・・
二度目は、私の画廊のコレクターに写真を迂闊にも、
見せたことが起因して「奥田さんが好きな金額を
つけてよいから譲って欲しい」といわれた時・・である。
安徳 瑛が亡くなってから、当画廊でなんとか工夫して
是非個展を企画したいと考えていた重要作家であったので
この作品は、手放さず死守してきたが、以来、
この作品は、正月だけ作品倉庫から出して1年に一回だけ
お披露目している。無論非売品である。

2015年9月23日  お彼岸を迎えて


<<1997年>>

アルブレヒト・デューラー (1471-1528)
「バッタのいる聖家族」

1471年、ドイツ南部のニュルンベルグに生まれたデューラーは、
金工家の父の下で見習いをさせられたのちに、画家ミハエル・ヴォルゲムート
のところで15歳から3年間年季奉公をした。
1490年の復活祭から18ヶ月間バーゼル、ストラスブルグなどドイツ
各地の遍歴の旅をした後、1494年にニュルンベルグに戻り結婚している。
ヴェネチアへの旅行を通して作品を描く中に、自己の芸術に欠落していた
学究的な側面を補いかつ個性を打ち出す為に数学や幾何学、ラテン語、
古典文学等々を徹底研究した。これはレオナルドやマンテーニャ、
ベリーニなどイタリアの巨匠達からの強い影響と思われる。
1512年に皇帝マクシミリアンの宮廷画家となって以来
名声を得、ヨーロッパの諸都市を訪れ歓待されている。
デューラーの膨大な作品は、木版その他の版画、絵画、素描などから
なっているが、著述も残されている。
イタリアルネッサンスの美の形式をドイツの美術の伝統の中に生かした
版画はなかんずく大きな影響力を西欧に与えた。
木版画と銅版画の双方のテクニックを
完全に熟達することで版画の領域を拡大し、彼の下で学ぶ職人達にも
厳しく訓練するなどによりグラフィックアートの水準を引き上げる
ことに大いに貢献した。
デューラーが木版画や銅版画の傑出した巨匠といわれる所以である。
彼の作品はいずれも、生き生きした図像のイメージが、
熟達洗練された技術の中で鋭く見る物を刺激し、幾重にも重ねられた
複雑な図像は、大概の画家の模倣出来る域を
はるかに超えた作品なのである。
彼以前にも以後にも二度と現れることの無いまさに不世出の巨人である。
デューラーは、1495年後頃から銅版画を始めたが、
最初にモノグラムを用いたのがこの作品「バッタのいる聖家族」に
於いてであるとされている。大文字のAと小文字のdの組み合わせで
記されており、その意味でもこの作品は重要な作品である。
この後デューラーは、モノグラムの形や配置を画面全体の
バランスを考慮に入れて作品の雰囲気を壊さないように
いくぶん位置や形を変えるなどの工夫もしている。
参考文献:西洋美術事典


<<1996年>>

ジョルジュ・ブラック (1882-1963)

作品名:“太陽と鳥 Ⅱ”
技法: カラーリトグラフ 限定75部 サイズ:44x53cm
制作年:1958〜59年 右下作家の署名、左下限定版号有り
文献:ドラ・バリエ著 「ブラック版画集(カタログレゾネ)」
P185、No129 に掲載

ご承知のように、セザンヌがヒントを与えた絵画の二次元性の問題を
発展させ、キュービズムの概念をブラックが確立した
といわれるのは、1908年、作家26歳のカンワイラー画廊での
個展を契機とするものであった。
嘲笑をこめた批評に蹂躙された人間の行動や言動が、
後年正当性を得て、あまねく世間から認められることは、
枚挙にいとまが無いが、こと美術界に於いては、常にそうした形で
作家達の作品が理解され、美術史は変遷を遂げてきた。
ブラックとピカソを代表とするキュービズムもその例外では無い。
ブラックは日本では、その名に先攻されたピカソほどには、
紹介の機会や愛好家が欧米に比して
やや少ないように見受けられるが、
美学上は、数世紀に数人といわれる
重要な作家の一人である。
この作品は、晩年の「鳥シリーズ」の作品中の傑作の一つである。
太陽と鳥が単純な形態に白抜きされ、四角のわくの中で、
今まさに二つは折り重なる様に見える。
おそらくアトリエからの眺めで、閉息された部屋の窓の向こうに、
たおやかに飛翔する鳥の姿は、
作者の静かで統一ある精神性を示して、
見るものをして、穏やかで静謐な詩情を呼び覚まさずにはおかない。
ここには、やはり優れた作品の持つ永遠の至福の時がある。
画廊シェーネ 奥田 聰
東興通信 投稿文より


<<1990年12月>>
「画廊の推す作家 平澤 重信」東興通信投稿文より


平澤の作品は、どこか物憂げで詩的な
気分に包まれている。
それでいて強力な磁石に吸い寄せられていく
砂鉄のように、自然のままに放置しておけば、
全て彼の掌中に納まってしまう様な
ある不思議な魅惑がある。
彼の作品の持つユーモアのセンスと、
交錯する自由奔放な筆さばきは、
アカデミズムに裏打ちされた堅牢なフォルム、
合理的な色彩などで武装された
誹のうちどころ無い名品の持つ、
あの優秀性とはまた別個で、
常に座右においておきたいと思わせる
いとおしさに満ち溢れている。
卓越した感性は、ともすれば俗人の
中にあって周囲のものに異端児扱いを
受けることもあるが、私は彼のアトリエを
訪れる度に、この作家は本当に
生来の天衣無縫の画家なのだと感心して、
いつの日か素顔の平澤が
知られることになるであろうと、
その制作途中の作品と作家の顔に思わず
見とれることがよくある。
平澤 重信は、ここ数年それは作家の
好む色相ということもあろうが、
カドミウムグリーンを用いて描いている。
作家に内在し浮んでは消える
最も原始的な発想をプリミティブに
表現して見せた形象の上から、
この色を塗り込めて曖昧模糊な画面に
敢えてするというやり方をしている。
ただこれは、この色の持つ強さゆえに、
せっかくの本来の主題の持つ
伸びやかさや面白さを摘み取ってしまう
こともあるという危険性を
孕んでいるだけに普通の神経を持つ画家なら、
滅多に使わない色の様に思える。

そこがどこまでも優等生にはなり切れない
平澤の平澤たる所以でもあるのだろう。
しかしこの主題と等価の色彩に
対する苦闘も近作をみていると、
ほどなくその解決への道が開かれて
くるものと思われる。
いずれにしても、一時的な模範生の解答に
みられる風の通俗的な技巧のみに堕して
いないところが、尋常で無い魅力横溢な点で、
この作家を推す理由のひとつでもある。


<<1989年11月 ロドニー・ツエレンカ個展に向けて>>
   

この度、当画廊シェーネでは別紙のご案内の通りパナマの新星、
ロドニー・ツエレンカの日本初個展を開催できる運びとなりました。
ここに作家のプロフィールをご案内方々ご挨拶申し上げます。
ロドニー・ツエレンカは、今年36歳になるパナマ期待の大物作家である。
父親はオーストリア、母親はドイツ生まれのユダヤ系の家系に
生まれパナマで育った。
多くのユダヤ人達がそうであるように、彼も幼い頃より貿易商の
父親の仕事の関係で世界中(欧州、北米、南米、アフリカ、中東、
オセアニア、アジアなど40を超える国々)
を巡り、現在イスラエル語は無論、英語、独語、スペイン語による
意思疎通に苦労することは無い。早熟多感な作家は、すでに6歳の時に
観たイタリアやスペイン、ニューヨークにおける美術館での
印象が,とりわけ強く今日まで影響を及ぼしてきたと語っている。
来日は1970年(作家17歳の時)が最初であるが、
これを契機に精神と肉体の一如を求めて20歳より始めた空手は、
現在3段の腕前である。
彼の興味あるテーマは、視覚的に認知の出来ない、直観の世界、
精神的世界であり、人間の知識を超越した自由で、無限、
宇宙的規模に相応する精神世界の存在が、現実の世界に代わるもの
として意味のあるものと考えている。
彼の創作への意欲も、限りなくイマジネーションを働かすことで
別世界の創造と新しい芸術を生み出す可能性を無限に拡げることが出来る
という考えに基づいている。特に1980年、イスラエルでの
2ヶ月間の生活と宗教的な絵画の研究が、それまでのマヤ文明、
仏教、インド哲学、禅などの影響に加えて、一層ファンタジックな
世界にのめりこませるきっかけとなった様である。
12歳の時から、本格的に中南米の生んだ巨匠アルフレッド・シンクレアや
A・デユタリから愛されながら学び又、その後様々な作家達との
出会いを通じて修得した技法は、現在彼の画面の中で、
時として抽象的な形態の組み合わせと構成
それもあるひとつの方向を持った秩序ある描写として独自に展開させている。
一見プリミティブで何の変哲も無いかのように見えるそれも、
しばらくみていると、彼が言うように魔術師の手を経て
生み出されて来たのかも知れないと私にも思えて来るのである。
この計り知れない魅力を持つ異邦人の作品を、この9月に行われた
パナマ近代美術館での個展出品作から作家自身が自選し、
さらに新作を含めて約25点を日本の美術愛好家の方々のために
一部販売可能な作品として当画廊シェーネにて展観いたします。
何卒、ご高覧賜りますよう本日茲に、ご案内申し上げます。

<<以下ロドニー・ツエレンカとの対談要約 1989年11月10日>>
私の作品は、様々の哲学、宗教の影響を受けているが、
(ユダヤ教、マヤ文明、ヒンズー教、エジプト文明、インド哲学、禅など)
それらとは異なる独自の哲学に基づいている。
私の作品は、概して4~6種類異なる要素を採り入れて画面を構成している。
すなわち、リアリズム、アブストラクト、オップアート、
シュールレアリズム、点描主義、幾何学的構成、数学的要素などである。
その組み合わせによりプリミティブな世界やファンタジック世界を
構築している。
しかし全ての作品がこれらの要素をいつも採り入れているわけでは無い。
自分が主題を描く上で必要と考えた方法を作品に採り入れて、
重要なのは人間の力を超越した神秘的な世界や想像の世界を
如何に表現して行くかということである。
すなわち神秘主義は、自分の作品の課題の一つである。
実際に作品を描いていく場合に先ず第一に自分の様々な神秘的な体験に
基づくインスピレーションから出発したアイデアを優先する。
次にどのように描くかという方法論の中で主題の位置を決定する。
私は、キャンバスの画面を縦横9等分する。何故9かというと
9は最大で宇宙の全てを意味すると考えられるからである。
私は分割した1.3.6の対角線を結んだ線上の位置に、
その主題を合わせるという方法を行っている。
勿論私が必要と考えた時には違う方法を行うこともある。
最終的には、画面全体から眼に見えないもの、人間の力を
超越した精神的な世界を表現することが重要なことと考えている。