~「展覧会に寄せて」(1997年以前)~

<<1997年11月14日~30日 中嶋 明個展に寄せて>>
「2Dから3Dへ・平面の上に立体」



展覧会を観て廻るのは楽しい.しかし、
春と秋の上野の東京都美術館で
行われる目白押しの
各団体展を軒並み鑑賞しまくるのは、
人の少なそうな平日の午前中を選んで
行くように努めてはみても、
結構エネルギーも意欲も必要とする
というのが近頃の実感である.
中嶋 明さんの所属する独立美術協会展は、
出品作品の多さもさりながら、多くの作家が
自己の技法や創造力を、懸命に主張し過ぎる
というか、鮮やかな強い線や色彩を
駆使した力作でいっぱいという感じで、
さしもの私もいささか辟易して
この会場だけは自然に足早になり
がちで、眼に留まる作品のみの
マークになってしまう.
ここ数年の中嶋明さんの作品は、
そんな熱い会場で、流れ込む
一時の涼風あるいは一服の清涼剤の
ような心地よさで人の目を留めさせる。
さまざまな言語で、慎しみなく、饒舌に
語り過ぎる多くの作品群を凌駕して、
むしろ端然と光り輝いている.
一昨年、野口賞を受賞した“岸辺の家”
という作品などはその静謐さと完成度に
於いて微塵も揺るがず、当方の
ひいき眼の感情を差し引いても十分
余りある傑出した作品であった.
そして本年度の独立展に於いて
“カロンのいる風景”と題する、
ある種の寓意を感じさせる
作品が、ついに栄誉ある 第65回記念賞
および独立賞を受賞することになった!
作家の実力からして遅すぎるとの
声もあるが、中嶋さんの真骨頂が認められ、
ようやく選考委員の一致をみたわけで、
ひそかに支援してきた私としても
同慶の至りである.
画家、中嶋 明の作品にふれると、
秩序ある精神と無垢で禁欲的な生活を
想起させるような、何か知的で
理性的な超聖人的図像を感じてしまう.
それは中世以前の絵画に通じるものも
あるが、宗教的な題材をテーマとする
イコンとも別であるし、中世紀の
イタリア、シエナ派にみられる甘美な
世界とも異なっている.
作家が、牧師の子供として生まれ、
教会の中で育ち、多くの熱心な
クリスチャン達から見聞を広めてきた
経緯を考えると、彼の作品が色彩や
形態そして構成という点で、
ビザンチン美術やイコノグラフィの
影響を受け、中世の教会にみられる
フレスコの壁画にひかれ、多くを学ん
できたとしてもなんら不思議ではない.
作家の好む色彩が、かすれたような
淡い色合いであることも、どこか
高貴な香りがする柔和な知性のある
顔立ちの人物像も、画家・中嶋 明に
内在する人間への思慕の姿勢が
素直に表明されたものに違いない.
彼の作品は、たいてい人物の頭部が、
横向きか前向きで、身体全体に比して
バランスが大きく平面的であるし、
背景の風景や建物そして室内の
透視図法は消失点が分散し、我々が
実際に眼にする事物の姿や見え方とは
違っている.このことはとりもなおさず
作家は3次元の事物を2次元である
絵画空間の中に置き換えるときに、
見えるままに描くよりも作家の内なる
真実に忠実でいようとすることへの
証明でもあり、たとえ多くの制約を
受けたとしても絵筆による作業を
続けていくことで、自ら画家である
ことをあくまでも強く主張していること
にほかならない.さらに言えば、
今回の新作の3次元の立体作品に於いて、
テラコッタを用いて平面上に、
人物像をレリーフ状に浮かび上がら
せているのも、2次元世界でどうしても
解決できない空間の問題や完成度、
強さの点で、より高い極みに
到達させる方法として彫刻という途を
すぐに選ぶのではなく、画家としての
ぎりぎりの 選択をしたものに違いない.
これらの作品は、決して彫刻ではなく、
3次元立体というにふさわしい.
その意味で今展覧会は、従来からの
平面作品とも、ここ3~4年程前から
制作してきた木による単体の人物の
立体とも、趣を異にした新展開の
作品である.作家が立体の作品に於いて
『白色』を比較的多用するのは、
平面上に本来描くべき自己に内在する
多様な想いを、この一色に凝縮して
塗り込めているからだと思う.
中嶋 明さんの作品のきれいな白を
みていると、私の敬愛する画家、
故・安徳瑛氏(1940~1996)
が、ロレンツエテイや
ピエロ・デラ・フランチェスカ等、
14~5世紀のイタリアの画家達から
吸収したものを自らの内的創造力と
結び付けて、本人の絵画世界の中で
独自展開してみせた時に
“私の白は、空白の白ではない、
他のものを消し去った白、
大切なものを選びとる為に省略した
白なのです”とその美しい白について
語った言葉が思い出され、
重ね合わせて、白色のもつ意味合いに
考えがおよぶのである.
1997年10月末
快晴 秋らしい佳き日の午前