<<2017年8月14日>>

”ひとときの夕・風” 油彩30F  1989-1990年

画題:「・・・風」に関して
此の所、安徳 瑛のFaceBookのプレビューが、
何故かよくわからないが、
日毎に増えて来ているので、
FBの管理サイトから、投稿を促す
お知らせがよく届く!
そこで、本日は、安徳 瑛が屡々、
画題として名付けた

「・・・風」に関して一言
昨年暮れ、画廊 シェーネの主は、
「安徳 瑛を讃える為のシェーネの庭」
一角に、かねてより準備
していた
「イタリアの風」のコーナーを
漸く設けました。

故・安徳 瑛は若い頃から、初期ルネッサンス時代
のシエナ派のイタリア人画家(29歳で没)、
アンブロージョ・ロレンツェッティの
都市空間の描き方に、強く啓示を
受けて来ました。
安徳 瑛は、ルチアーノ・パバロッティの
歌う「風に託そう私の歌」をアトリエで
いつも聴きながら絵を
描いていたことは、かつてFB上で、
紹介済みですが、安徳の遺した手記の中で、
「風よ!風よ!」(40号油彩)という
”風シリーズ”の作品の一つの
制作段階で次のように語っています。
「・・(前略)・・ノヴェチェント・イタリアの
作家シローニ(1885-1961)は、現代の工場群の
中に象徴として車を、描き加えている。
僕の車は、私達の時の実感、あるいは、
テンポの象徴として加えてみた。
・・・(中略)・・過ぎ行く風の如く爽やかな性
の証として把える確固とした造形を願った。・・」


常日頃、このシローニ他、
キリコ(1888-1978)やモランディ( 1890-1964)
など形而上派と言われる作家達の絵画を
好んだ安徳
にとって、
「抽象と具象」「黒と白」「動と静」
などなど、相反する両極に対峙する
この世の事象を叙情的にならず理性的に認識し、
多視点の技法を投入することにより、
キャンバスにその全てを確固とした
不動の造形として留めたい
という
思いで腐心する姿は、頑なで、無難な考えを
堅持する人達には、なかなか理解され
難いまま、むしろ「変人」扱いされて、
特別大きな賞なども得ることもなく、
その生涯を閉じてしまいました。
私が、つねに強く惹かれる
「変人」扱いされて来た天才達、
例えば、「牧神の午後」の舞踊譜で知られ、
バレーの世界を大きく変革させながらも、
奇人扱いされていたニジンスキー
(1890-1950)や、舞台での公演を
一切拒絶した、天才ピアニストの
グレン・グールド
もまた然り、
その行動と演奏態度は、奇人扱いされ、
「まっとう」と言われるごく普通の
有能人たちには眉をひそめられました。
このところ安徳 瑛のFBの新規プレヴューが
増えて来たそうだが、これまでの安徳ファンに
とどまらず、美学を研究する若い学生諸君達を
はじめ、時代を担う若く精力的な美術家
ならびに愛好家達にも、安徳 瑛の絵画を
改めて見直していただき、この天才画家・
安徳 瑛の正確な理解に結び付けられる序と
なることを希求して止みません。

<<2015年4月7日>>


「海老原のいる風景」ガッシュ・パステル・ペン・コラージュ
安徳の恩師:海老原喜之助」

1988年9月10日、この日、
長年準備してきた安徳 瑛の初めての画集
「街・丘・風・・・戻り来る日々」を
当画廊より刊行いたしました。
この画集の上梓を契機に当画廊での
プレヴューを皮切りに名古屋松坂屋本店様・
大阪大丸梅田店様・鹿児島三越様の
3箇所でも個展を開催しました。
安徳 瑛自身は中でも鹿児島での
個展を楽しみにしておりました。
というのも、安徳本人は、熊本の出身ですが、
幼少の頃より
師と仰いだ海老原喜之助の
出身地が鹿児島であったからでした。

安徳が、海老原から絵の手ほどきを受けたのは
安徳 瑛10歳の時でした。絵を描くために
生まれてきたような早熟な天才少年安徳にとって
海老原喜之助の主宰する研究所で、
大人達が行う絵画技法は目を見張るような
感動の連続でした。
めきめき頭角を表した安徳 瑛は馬の絵を
得意とし、熊本日日新聞社主催の
「火の玉祭りの絵」のコンクールで
荒れ狂う馬と人の群れを描き、早くも
この年大人に混じって入賞しています。
そんな安徳 瑛に海老原も特に目を
かけていたようで、安徳 瑛が当時、
熊本県内随一の進学校「済々黌高校」に
入学した時、周囲のものに
「瑛が、やった!
済々黌高校に入学した!・・」と、

まるで、我が子の慶事のように
吹聴し回っていたそうです。


(これは、1990年に熊本鶴屋百貨店様で
安徳 瑛展を開催した折に会場に
訪ねて来られた、当時、海老原喜之助の
研究所に通っていたという人物から
直接、筆者である私が、伺った話です。
そんな師の思いは、自然に弟子にも
伝わるようで、安徳瑛が東京芸大3年時に
海老原喜之助が芸大教授として

招聘されるかもしれないという
話が持ち上げり、安徳は小躍りして
喜んだそうです。
しかし独立美術協会を代表して林武氏が教授に
迎えられることになりました。
安徳 瑛は、私に「あの時、もし海老原が
教授として赴任していたら「国画会」
ではなくて、自分は多分今「独立美術協会」
に所属していただろう・・・・」と
語っています。鹿児島では、今でも
海老原喜之助にゆかりのある人達が多くいます。
安徳 瑛は、自分の鹿児島での個展の時に、
何人かの海老原を知る人達や鹿児島の
風土に触れて、さらに刺激を受け、
恩師の思い出として、海老原が
よくしていたという仕草を

的確に掴んだこの作品を、
帰宅後直ぐにアトリエで仕上げました。

この作品は、安徳 瑛が描いた唯一の
海老原喜之助像で
当画廊の永久コレクション
となりました。

<<2009年7月10日>>

「 昔見た丘」油彩・キャンバス 53×45.5cm 1989~90年

1991年当画廊シェーネが発刊した安徳 瑛の2冊目の画集
「風よ!丘よ!」の編集に当たり、かねてより私の懇意にしていた
詩人 小川英晴氏が安徳 瑛の作品のためにささげた詩の中で
「風化によって 完成に近づいてゆく 風景もあるのだ
永遠に向けて ひらかれた青空の下
しかし人間は その所在さえ定かではない」
と言い切った時、
まさに安徳 瑛の絵画世界 なかんづくこの作品を
見たときに感じる世界そのものを
実に巧みに謳いあげたものとして
小川氏の原稿を最初に手にしたとき私は大いに感動した!
安徳 瑛がこの作品を完成させたとき
実は私はこの作品が10号の大きさではあるが、
この時期の安徳が到達した一つの絵画観を見事特徴的に
表現出来た安徳生涯の重要な傑作のひとつであると
思っていただけにひとしおであった。
安徳 瑛が私に遺した備忘録の中でこの頃「時をつくる」と題して
「・・・・・白は形として存在し、色としても全てを
統合するかのように響きあいながら存在する・・・・・(中略)・・・・
白は、そのような自然で自由で安らぎのある、時をつくる。」
と書いている
安徳 瑛も又、この詩の原稿を見せた時
「う~ん、今までこんなこと誰も言わなかったよね!・・・」
と安徳の痒いところにどうやら届いたと見えて一読して
この詩を多いに気に入り、称賛したのであった。


<<2008年9月30日>>

「 赤い家」油彩・キャンバス 73×90.8cm 1987年

安徳 瑛にとって、輝く白と影が作る形は彼の作品の構成上重要である。
「少年の頃、自宅の近所の硫安工場の敷地で
堆く積まれた硫安の白い円錐形の山が、
青い空を鋭く切り裂くのに出会ったとき、抽象的な形というものを
初めて認識させられた原体験だった」と1984年の当画廊での
個展の際に安徳 瑛は書き記している。
又別の機会に「白は形として存在し、色としても全てを
統合するかのように響きあいながら存在する・・・(中略)・・・
白は、そのような自然で自由な安らぎのある、時をつくる」とも述べている。
この安徳 瑛の独自世界を構成する白の対極としての
影の形は安徳 瑛の作品の中で表裏一体をなす重要な構成要素である。
1987年夏にイタリア・ベローナの取材旅行の途中
街の一隅で見つけたこの赤い建物に射す強い光、長く延びた影・・・
余程心打たれたと見えて帰国後直ぐに制作した1点である。
私がかつて書いた安徳 瑛の生涯作品の区分(8つの時代)の中の、
「多視点の時代」の中では異色とも思える構図で
白と黒い影で括った不思議な俯瞰構図の建物を大きく正面から見据えて
安徳 瑛の認識する、形の世界を力強く具現化した簡潔で見事な作品である。
この作品は、30号の大きさであるが安徳 瑛の生涯の中でも
重要な傑作のひとつに数えられるものである。
当画廊の安徳 瑛常設展示室で展示中である。


<<2008年9月30日>>


「 青いCubo 」 油彩・木 7x7x20.5cm 1988~90年

ある寒い冬の一日。個展の打ち合わせの為に
アトリエを訪問した日のことを私は忘れない。
その頃アトリエを改築したばかりで、安徳 瑛のお気に入りの北欧製の
新品の暖炉の前で例のごとく悪戯そうな輝く目で、
手振り身振りしながら「ちょっと考えが今あってね!
相談なんだけど、、、」と語り始めた。
暖炉用の薪は、近くの建築現場から廃材を譲ってもらっているそうで、
暖炉の周りにはそれらが堆く積まれていた。
1つ2つ手に持っては暖炉に小気味良くほうりこみ、
私の為に暖をとってくれた。
「実は、こんな木に直接絵を描いてみようと思うのだが、、」
「それは面白い!是非進めてください!」出来上がる作品が楽しみで
躊躇無く私は、大賛成の旨を
伝えた。
そして後日出来上がった最初の作品がこの作品である。
この後、大学やその他の生徒達に影響を与えるきっかけ
となったいわゆる「安徳の板絵」は、
この1点から始まったのである。
私のお気に入りの画廊コレクションとして入り口のケースの中に
いつも収まっているので
訪れる人達の中でで注目してくれる人がいると
いつも語るこの作品に関するエピソードである。


<<2008年9月30日>>


「ベローナ」油彩・キャンバス33.3x45.5cm 1987年

イタリアをこよなく愛した安徳は、前の年(1986年)北イタリアのレストランで
夫人とともに食事をした時に見た光景のことを帰国後、熱く私に 語っていた。
席に着いた二人の窓辺の向こう側に、今まさに夕日が落ちようとしていた。
その眩しい光が、眼前に広がる空は無論、木々や建物までも真っ赤に染め代えて、
その印象が余程強烈であったようである。
その後「赤、赤、、、、、、、」と赤に取り取り憑かれたような精神状態を
続けていた。
そしてこれまでのセピアと深くて美しい青の画面を一変させた作品が突如
登場してきた。
この作品は、8号大の小品ながら少ない色と暮れ泥んだ丘や木々
そして建物、その強いフォルムの構成が
夕食前に戯れて遊ぶ子供たちの柔軟な点景描写と呼応して実にバランスの
良い端整な作品である。
まさにレストランで出会った感動的な光景をそのまま髣髴とさせる
安徳 瑛の意気込みと強い意志力が感じられるこの時期の重要な傑作。



<<2008年9月30日>>


「ながつきの山」 油彩 60.6×72.7cm 1992~93年

この作品は、安徳 瑛が山を描くきっかけとなった
作品である。山を描いた油彩作品は、彼の生涯の中では8点だけである。
それも96年2月に亡くなるなるまでの晩年のわずか2年半ばかりの
間に集中している。
この作品は、当画廊所蔵の山の作品「3点のコレクション」の内の1点である。
山の作品8点はいづれも傑作ぞろいで、端整で力強さと美しさを兼ね備え、
余分な細部はあえて省略し、その形を通して山が内包するエネルギーを
深く静かに表現している。
安徳は、「山を人物画を描く時のようにその性格までも描き切りたい」と
私に語ったことがある。
この作品は鹿児島の桜島であるが、この作品を描くために2度同行した。
その年は秋が早く、早朝の寒さの中で突然噴火をした桜島の
美しさに思わず息を呑んで二人とも山をいつまでも見上げていた為
満潮の海岸に気が付かず、危うく潮水につかりそうになってあわてた。
安徳 瑛の代表作の1点である。


<<2001年5月>>


「青のサント・ヴィクトワール」油彩20号

詩と思想 投稿文」2001年7月号投稿文より
5回が約束のこのコーナーへの投稿の
最終回にあたり、敬愛して止まない
画家・ 安徳瑛(元国画会会員・
1996年2月1日肺癌により
死亡・享年55歳)の作品について言及する。
安徳瑛病没後、すぐに某社の依頼で書いた
作家への 追悼文の中で、
私は「形成の画家・『安徳瑛』
この希有な魂は、決して眠 らない」と題し
画家の学生時代から亡くなる迄の
全生涯作品を8つの時代に分 けて、
概観して述べた。
安徳瑛が、究極の造形をつかむために
自己の内的衝動や
認識の変化に溺れることなく、時代毎に創意と
工夫を重ね多様な変遷を遂げ、
常に絵画性重視の姿勢を貫いたことこそ
重要な意義があるということを強調 した。
タイトルに掲げた「青のサント・ヴィクトワール」
(1994年作15 号油彩)は、
晩年の代表作の一点で
せめぎあう白と黒の時代」へ入りかけた
頃のものである。
山を題材の作品は、画塾を開いていた
ごく若い頃に描 いたことがあると
画家は語っていたが私はその画帳を見ていない。
山を題材の 油彩作品は全部で8点しか無い。
作家は、通常の山岳風景を
描く積もりは毛頭 なく
「リアリテイのある山にしなければならない。
リアリテイとは、在ることを
どれだけ絵画的に、衝撃的に成り立たせるかだ」
とこの頃始終 語っていた。
画家を古くから知る連中でも、この時の
画家の変貌ぶりには驚きと 感嘆の声を
あげる者がいた。山を題材の最初の
油彩作品は実はもう少し早く
ながつきの山」と題する「櫻島」を
テーマの作品が92年から93年に
かけて描かれている。
山を描いた作品は、いずれも作家の気迫が
強く感 じられる名品ばかりで
余分な形態を剥ぎ取り、叙情性や
文学的思考を塗り込 めて
ごまかすようなことだけはしないという
明解で強い画家の絵画性重視の
意志の表出がみてとれる。

画家は、この「サント・ヴィクトワール」を
初めて眺めた時の印象を
ノートに「・・セザンヌが通い続け、
思索を重ねた日々を思 うと
息を呑んで立ちすくんでしまった。
冷たく透明な風によって、裾野から頂 きへ、
えぐり取られる形態は(中略)
小さなひとつひとつの形の連続によって
一 つの宇宙を創り(中略)
山の向こうの形と、ここに見える姿と、
形の連続を気 にしたんだ」と
セザンヌへの思いを馳せながらも
安徳自身は、眼下の大地の木々を貫くように
屹立するサント・ヴィクトワールの光景を見て
「山の表情と空の形 とのせめぎあいが
気になっている」と書いている。
この体験後に描かれたこの作品は、
確かに暗くて深い潅木の中から
突き出たような鋭い山の形が、真っ青の
空と今まさにしのぎを削っているかに
見え画面全体は清涼な透明感に満 ちている。
サント・ヴィクトワールは、
もう一点30号の作品が在り、これまた
秀逸で、こちらの空は緑一色に描かれ
大地も新芽が吹いたような緑に覆 われている。
山肌が桃灰色に輝き山の形態の強さが
より強調されている。
この 作品は、すでに或るコレクターの
所蔵となっている。
安徳瑛の作品に寄せる思 いは尽きない。
作家や作品にまつわるエピソードも数々ある。
本年、画家没後5周年を迎え、早ければ
この秋「安徳瑛の生涯と作品」と題し
私なりの「安徳瑛論」 をさらに詳細に
言及した本を出版する予定である。


<<2001年4月>>


「耕地と木々と」油彩 20号 1989-90年
「酒処で生きるコレクション」


「詩と思想 投稿文」2001年6月号投稿文より
美術品のコレクターとの出会いと言っても
実に千差万別で、どんなに金を積 まれても、
この人には売る気が湧かないという客もあれば、
画廊で偶然出会った作品に心惹かれ、
なんとかやりくりしてでも購入しようと
算段される客 などには、その方の負担が
少なくなるように色々手をうって
希望に添うてあげたいという人情が
生じるという事もある。
中には逆手をとって、こちらの足下をみて
法外な値引きを要求したり、故意に支払いを
引き延ばす客 もあるが、この手の輩は
いつかこちらも応対に嫌気がさして
次第に縁遠 くなるのが一般である。
高邁で優れた眼を持つコレクターとの出会いは、
こちらも魂を磨かれるので精神が高揚する。
皆が注目し始める以前に美術品の
優劣を見抜く眼力がある方は、

はでなスタンドプレイはしないものである。
そんな優れた眼を持つコレクターの一人が
ここにご紹介する小林様である。
鹿児島に天文館という県内随一の盛り場がある。
その天文館大通りから一歩入った一角は
千日町というバーや
飲食店が林立する地域である。
地元周辺の 人々や政財界人達は勿論全国から
観光客や出張者が訪れ、ひと頃程では無いが
今でも夜毎の賑わいを見せている。
その小路に彼女小林様のお店がある。
縦長の 金色の取っ手の付いた黒塗りの扉に
「こばやし」とある。
そう彼女はバーのママ なのである。
私の敬愛する画家・故安徳瑛の鹿児島での
展覧会の為に出張した折、
百貨店の美術担当者のH氏から
是非紹介したいところがあるから
と言うことでお連れいただいたのが
この店であった。

店内はカウンターと奥に応接セットが
用意され、ヨーロッパ調のシックな内装が
いかにもママの人柄を表し
気持ちをなごませる気さくな店である。
みーちゃんという小造りで愛嬌のある
女性と二人だけで切り盛りしている。
常日頃からどこであれ部屋に架 かっている
絵にどうしても眼が行く私は、
入口付近の壁に架かる一見抽象風の
素晴しい水彩の小品が気になっていた。

この時同席していた安徳瑛も
やはり同 じ思いを抱いていた様だ。

それは、海老原喜之助の作品であった。
海老原こそ 彼の熊本時代の恩師であり、
師の薫陶を厚く受けた
安徳瑛にとって、その作品が 海老原の
優れた作品であることを
当然のことながら見抜いたのであった。
その 時初めて、何故H氏がこの店に
我々二人を案内したかを察知したのである。
ママ はおそらく安徳と海老原の師弟関係を
承知の上でその絵を
わざわざ 飾ったのであろう。
そういう心遣いをする方である。
この時開催された安徳瑛展 への出品作で
傑作の二十号の油彩画「耕地と木々と」が
ママの眼に叶いご購入いただいた。
作品は安徳瑛が病没した96年まで
店の奥の壁に飾られ、
安徳瑛の 画集と
併せて店に来た客との間で
交わされたという様々な美術談義 のことを
その後ママから何度も伺った。
美術品の楽しみ方にも色々あるが、
美術館や画廊の展覧会を見るまでも無く
こうして生活の一部として取り込まれた
空間の中で美酒を味わいながら
気軽にさり気なく美術談義の花が咲いてこそ
美術品は生きようと言うものだ。
色白でふくよかな笑顔の懐の深い
知性溢れた ママの眼の奥が、
美術品を観る時だけ一寸厳しく光るのに
ある時気が付いた。


<<1990年7月4日>>
投稿通信依頼投稿文より 一部原文改訂
「安徳 瑛の世界」
すでに8歳にして周りの大人が眼を見張る程の
腕達者であったといわれる
画家、安徳 瑛が50歳に手が届く今、
ようやくにして彼の本質と絵画が
理解され始め美術界で注目を浴びてきている。
安徳 瑛は、東京芸大当時から
フォートリエなどの触覚的で寓意をはらんだ
作品を好み、自らも原色をふんだんに
用いた抽象的な作品なども
描いて来た。その作家が1982-83年位から
自己に内在するわだかまりを
徹底追求する息苦しさからようやく抜け出し、
人間や社会の抱える不条理をも
包み込むかの様に、描く対象に大きな
ふくらみを感じさせる作品が顔を
のぞかせるようになってきた。1990年の
国画会展の出品作「野と丘と」では、
そのことが集約的に示されている。
画家自ら否、人類が次世代に遺すべき
メッセージを作家は、その人並みはるかに
優れた技術力を駆使して、確実に時間を
かけて間違いなく伝えていこう
とする余り一見すると、とてつもなく
難解に思える作品もあるが、じっと
見ていると「風、丘や家々の風景の中から
その奥にある神秘的なものを
拾い出そうと思う・・・
という作家の近年の心境が
垣間見えてくるのである。
この秋、9月頃から来年下期にかけて
作家の出身地熊本を含む全国5ヶ所で
個展を開催する。当方もその準備に
現在追われている。当画廊から
彼の第Ⅱ集目の画集も9月には刊行する。


<<1990年6月>>日本美術出版社「アートマガジン」依頼投稿文
(一部原文を訂正)


掲載写真 安徳瑛作 油彩
左:「鳥のいく午後」(100F)右:「野と丘と」(100S)


画廊の推す作家』「安徳 瑛」
安徳 瑛を語るには、私は彼の余りに多くの
エピソードを知っているが故に
一言では申し上げられない。しかしたとえ
原稿の枚数に制限が無いとしても彼を
語り尽くすことは至難である。
いつも彼は私の掌中や認識の枠内に収まったと
思う先からするりと抜け出てとんでもない処から
手招きして、私に「おいで!おいで!」をするからである。
彼の作品を15年以上も私は見て来た。
いつ彼のアトリエ訪れても彼の作品は、
常に新鮮な感動と驚きを私に提供して来た。
作家と作品について、私の
自分なりの解釈を用意していても、
新しい作品によって手直しを
余儀なくされてしまうのだ。
1983年「鳥のゆく午後」(100号油彩)
(安井賞:賞候補作品)を前年観た時は、
衝撃的であった。この頃から彼の作品の構成と
色味が加速度的に変化をし始めた。私はこの時
長年の彼との約束を守るべく初画集の発行
「街・丘・風・・・・戻りくる日々」1988年刊行
と全国展開の個展の企画を実行に移す計画を立てた。
彼にとってこの後の10年間が画家としての
生命中で最も重要な時期になる
のではないかと考えたからであった。
私が直感したことが間違いでは無かったと
思わせる作品が今年(1990年)の
国画会展の出品作「野と丘と」(100号S油彩)に
集約的に示されている。
1990年、今あきらかに作家は、新たな階段を
昇りつつある。この秋再び全国展開の個展を
開催する為、当方も多忙である。
情に流される風では無く、又知におぼれることも
無い具象絵画の在り様を示す本格的な
この画家の到来が日本美術史の中で意味を持つのも
そう遠い日では無いという気がしている。

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